***酸素毒
自分が自分でなくなる感覚が嫌で。
何を言っているのか分からないのが嫌で。
あとから自分の言ったことにめそめそと言いわけをしているのが嫌で。
だから、こんな気持ちを恋とは呼びたくなかった。
人を好きになるということが、こんなにも負の感情でいっぱいになることだなんて、思いたくなかった。
ただただ頬を緩ませて。
瞳を爛々と輝かせて。
スタッカートの効いた、歯切れのよい口調で。
「今日ね、学校でね、勲雄 がね」
他愛の無いことばかり報告してくる、中学生になったばかりの永久 の声が、耳からじわりじわりと私を汚染していく。
僅かなしこりは漣のように私の全身に伝わって、あっという間に体中の血をどす黒い、酸化した色に変えてゆく。
彼に庇護されるのが当たり前だと思っている、その甘えた考えが気に入らない。
依存は醜いから。
ただただ、自分の足で歩くことも考えずに、幼なじみに頼ることばかり考えているのがありありと分かって。
ただただ酸素を吸うように、当たり前のように彼を支配する妹が。
愛されることを当然と捉えている「そいつ」が。
いなくなればいいのに。
私の前から、消えてくれればいいのに。
悠 さん知ってる?
酸素は毒なんだよ。
吸えば吸うだけ、躰を蝕んでいくんだから。
なければ生きていけないのに、死に近づけるのも同じものだなんて、なんだか皮肉だと思わない?
いつだったか、勲雄が言い出した言葉が、脳裏にふっと浮かんだ。
だったら。
勲雄が、あの子にとって「全て」のあんたが、あの子の毒になってしまえばいいのに。
ぐるぐると、まわる。
毒が、全身を駆け抜けた。
弱音ばかりが私を少しずつ蝕んでゆく。
ただただ、妹を憎むことで立っているだなんて間違ってる。
脳裏はそう正論を振り回して、都合の悪い私を排除しようとするけれど。
ひたすらに、毒は躰を巡ってゆく。
濃縮され、排出されることもなく。
ただただ、ひたすらに。
「あんなとろい奴は妹じゃない」
いっそのこと、恒久 兄さんのように、あの子を全て否定してしまえば、楽になれる?
母さんや父さんのように、興味を持たなければ、平穏な気持ちを手に入れられる?
そんなはずはない。
あの子を否定すればするほど、私の醜さや貧しさが引き立つだけだっていうのは、もう分かっていた。
そう。醜いのは私。
生きるために必要なんだと、毒を吸ってしまったのは私。
悠さん。
勲雄が私を呼ぶ声が、立ち上がるのに邪魔をする。
耳を塞いでも無駄。
直接に、心臓を声が掴みとる。
永久に話しかけながら。
優しく彼女を甘やかしながら。
ふと顔を上げる彼と視線が合った。
息を、声を、全てを奪う。
ただ何を言うでもなく、何の表情も読み取れない素のままの瞳で、私をまるごと支配する。
毒は、私を巡回している。
今もずっと、解放することなく、続いている。
妹は、1人で歩くことを知って、甘美な香りを立ち上らせる毒を断ち切ることができたのに。
私はずっと、立ち止まったまま。
脳みそがじりじりと痺れる。
感覚を麻痺させて、そのまま蜘蛛の巣に囚われる。
もがくことすらせず、ただ、彼を見つめた。
自分で歩くことを知らなかったのも私。
自分で考えることを拒否したのも私。
悠さん。
彼が私を呼ぶ声が、何度でも絶えることなく、私に毒を与えてゆく。
思考を奪い、手足の力を吸い取ってゆく。
私が私でいられないなら。
あなたなんていらないのに。
嫌な自分をこれ以上見たくないから。
醜い自分を知りたくないから。
なのに。
他の女と付き合うのなら。
私を選ぶつもりがないのなら。
どうしてそんな声で私を呼ぶの?
バレンタインが近いって時にこういうモノを書くってこと自体、私が捻てるんだなぁと。
「友達ごっこ」より、悠のモノローグ。……とはいえ、「友達ごっこ」に悠さんの名前は出てなかったり。一応名前はナシで永久のお姉さんとして出ているんだけどね。読み込んでなきゃわからんよな。
元々、友達ごっこは小椋3兄妹のお話が思い浮かんで、そのうちのひとつだったのですよ。
「友達ごっこ」は末っ子の永久のお話。
あとは書いてはいないんだけどね、もうネタが腐りきって書くこともないだろうからちょこちょこと書くと、
長男・恒久の話は、自分以外の全てを見下していた恒久が、恋をしてぶちのめされるお話(救いは一切無し)。
そして長女の悠の話が、このモノローグの延長線上にある、悠と勲雄のお話。
そういうことも含めて、「友達ごっこ」の最後の方を読み返すと、勲雄ってやなやつだなあと。
まあ、結局これ以上書くことはない以上、裏設定の内輪ネタでしかないのだけど。
続き、というか勲雄側のお話は「ミルフィーユの空」をどうぞ。
初出:2004.2.12日記 2005.2.20UP